DD51のこと。
稲沢と四日市に、DD51に会いに行ってきました。
ほんの数分、見るだけ、しかしたいへん濃密で尊い時間でした。
本題は、後ほど。
エネルギーを要する文章を書くには、準備運動が必要なのです。
準備運動として、道中の話。
いつも通りリトルカブを駆り、R1を東へ。
列車の時刻を調べずに出たもので、稲沢が先か四日市が先か、たいへん迷いました。
栗東のR8分岐を通過する瞬間まで迷い、稲沢を先に決定。
結果的にはこれが正解でした。
稲沢までのルートは、
R1→r13京守線→R1→R8→米原駅→R21→岐阜駅→R22→稲沢駅。
カブでは初めての関ケ原越えです。
稲沢を先にしたのは、関ケ原は滋賀側から越えておいた方が楽だ、というのもありました。
寄り道をします。
こう見えて岐阜は本当に久しぶりで、それこそ市内に来るのは15年ぶりくらいじゃないかな。
岐阜を出たら稲沢へ向かうのですが、案外距離があるのですね。
岐阜〜名古屋はJR快速に乗ればすぐのように思ったので、これは電車がやたら速いだけなのだと。
様々な感慨がありながら、稲沢へ着くのでした。
(いっぱいおる!)
実はEF64-1000形を見るのは初めてかもしれないのでした。
0番台ならばそれこそ中央本線で見たりしたのですが、案外初めてが多いものです。
経験の浅さを知りますね。
会いたい彼はいないようでした。
稲沢から七宝や甚目寺をうろつきながら、蟹江からはR1です。
そして四日市。
ここからが、本題。
(あれは…)
1805号機!
彼に会いたかったのです。
DD51形のラストナンバーであり、私が唯一城東貨物線で写真を撮ったカマ。
14年ぶりの再会です。
会いたかった。
平成14年7月21日、蛇草信号場にて。
(元の写真は見れたもんじゃないので加工しました。)
城東貨物線を走るDD51形は「おらが町の機関車」でした。今考えれば。
当時は、本数は少なく、たまに見ればのろのろ走っている、という印象でした。
元々電車好きであった私を鉄道にのめり込ませたのは、他ならぬDD51形の牽く貨物列車だったのですが、それは後から考えればの話、当時は大した感慨もありませんでした。
たまにのろのろ走っている。それだけ。
城東貨物線を撮ったのは、上の写真1枚きりです。
滅多に列車が来ないのでは写真の練習になりようもなく、さらに感慨もないのでは、こんなものでしょうね。
さて、時は流れて、吹田からDD51形が消えました。
城東貨物線がおおさか東線になった後のことです。
「あぁ、そういえば最近見やんな。」くらいの感覚で、彼らは城東貨物線に来なくなりました。
しかし、寂しいなあ、と今になって思うのです。電気機関車になっても変わらずのろのろ走っている城東貨物線を見れば、ましてや機関車が過ぎた後の延々続くコンテナを見れば、そのようすは昔のディーゼルが牽いた貨物列車とダブって見えるのです。
そういえば、さよならを言えていないじゃないか。
DD51形の一部は、愛知機関区へ行ったと知りました。
写真に撮ったラストナンバーも、愛知に行きました。
こうして、やっと機会を見つけて、稲沢及び四日市へ出向いた次第なのでした。
話は四日市へ戻ります。
ラストナンバーが発車を待つ四日市駅へ、対向の快速みえ号がやって来ます。
ライトを上げて…。
ずんずんとやって来ます…。
ちゃんと言えた、さようなら。
ああ…、
やっぱり行かないでくれ…!
行ってしまいました。
城東貨物線ではのろのろかったるく見えたディーゼルは、ここでは(或いは今日に限っては)足早に去って行くように見えました。
私がこうして普段通りのDD51形を見るのは、これが最後かもしれません。
先般、1801号機だったか、DD51形の最終全検として大宮工場を出場しました。
つまり、DD51形はもうすぐなくなるよ、ということであり、明確な終わりが見えたのであります。
今回足を運ぶに至ったきっかけの一つでもあります。
いよいよ本当になくなるということになれば、その際は今回のように見にいくかもしれません。
ただ、平穏なうちは、遠くで頑張っていて欲しいと思います。
以上にて用事は終了し、帰路です。
ルートは、R1→r103→r54→R1→R25→R163。
走行距離は、370kmでした。